2026年8月15日


暑さは、もう夏という季節の義務を果たし終えたかのように、朝から容赦がなかった。蝉の声さえ、その暑さの中に溶けてしまいそうな朝であった。
開業を目前に控えた、あの日。私は内覧会の準備に追われていた。どの棚に、どの書類をしまえばよいのか。そんな、人生の重大事とは到底思えぬことを、私は真剣に考えていた。
そのときである。
「先生、この胡蝶蘭、すごくいい匂いがします」
事務局長が、胡蝶蘭の前で立ち尽くしていた。
「わたし、今までこんなにいい匂いのする胡蝶蘭を見たことがありません。きっと贈ってくださった方は、先生のことを慕っていらっしゃるのでしょうね。きっと素敵な方なんでしょう」
そう言って、事務局長は、ほとんど感涙しているのであった。
私は少しばかり心を動かされた。
なるほど。胡蝶蘭というものは、ただ美しいだけではない。人の心まで動かす、何かそういう力を持っているのかもしれない。
私も、その「素敵な香り」とやらを味わってみようと思い、胡蝶蘭に顔を近づけた。
そして私は、見つけてしまった。
見つけなければよかった。
あのまま、遠くから眺めていればよかったのである。
美しい胡蝶蘭と、その花を近くで優しく愛でる事務局長。その、どこか清らかで感動的な一枚の絵を、私はただ遠くから眺めていれば、それでよかった。
しかし人生というものは、知らなくてもよいことを、どういうわけか教えてくれる。
「先生、どうです? いい匂いでしょう?」
私は答えなかった。
ただ、静かに一歩、後ろへ下がった。
そして思った。
――開業とは、こういうものなのかもしれない。
夢と希望に満ちた新しい門出の陰で、決して知りたくなかった真実を知ってしまう。
そんな後悔を胸の奥にしまい込み、私は気を取り直した。
そうだ。
今日も新しい一日が始まるのだ。
私は決意を新たに、明るく挨拶をした。
「おはようございます、事務長! 今日もよろしくお願いします!」
すると、胡蝶蘭の陰から、事務長の声が返ってきた。
「先生、おはようございます。今日も暑いですね。ちょっと歩いただけで汗がだくだくですよ」
そして、何事もなかったかのように続けた。
「先生もいります? デオドラントパウダーシート。顔を拭くと、少し涼しいですよ」
私はしばらく黙っていた。
胡蝶蘭は、何も知らない顔をして、朝の光の中で咲いていた。
そして私は、その花を二度と、以前と同じ目では見ることができなくなっていた。
院長